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ゲーム情報&ブログ企画もの『ゲームジェネレーションズ』第3回、ディスクシステム編



ゲーム情報&ブログ企画もの『ゲームジェネレーションズ』第3回(ディスクシステム編)カートリッジからの離脱を宣言して任天堂がディスクシステムを発表、その驚くべき作品としてゼルダの伝説をリリース、当時の少年少女の反応は如何に?





従来のファミリーコンピュータ用ゲームプログラムは、カートリッジ(ロムカセット)に内蔵されたROMに格納されていた。それに対し、ディスクシステムは「ディスクカード」と呼ばれる磁気ディスクに記録されたプログラムやデータを、必要なときにメモリ上に読み込んで実行する形式である。ディスクを読み取るディスクシステム本体 (HVC-022) と、ソフトウェアの情報をファミリーコンピュータ本体に供給するRAMアダプタ (HVC-023) からなり、ファミリーコンピュータまたはAV仕様ファミリーコンピュータに接続することでシステムを構成する。別売ACアダプタ、または単2電池6本で動作する。

本体との接続は、RAMアダプタをカセット差込口にセットし、そこから延びるコードをドライブ本体に接続するという形で行われる。写真などではファミコン本体をドライブの上に乗せている場合が多いが、必ずしもそうする必要はなく、双方の固定もされていない。後述のディスクライターに表示される映像でも、ディスクシステムをファミコンの横に置く表現がみられる。固定用の「ファミコンシステムラック」が後にハドソンから発売された。

内蔵されるRAMはプログラムデータ用が256キロビット、スプライトと背景用が64キロビットで、途中の読み込みなしに使える量は片面の半分ほどにあたる。ディスク読み込み装置としてのみならず、新しい機能もいくつか追加されていた。中でも、ファミコン本体では矩形波など限られた音色しか出せなかったサウンド機能を拡張するために、周波数変調できる波形メモリ音源[2]が搭載され、ゲームプログラムから利用できるようになったことが大きい。

ディスクカードを模したマスコットキャラクター「ディスくん」が存在し[3]、「やればやるほど、ディスクシステム」のキャッチコピーとともにCMの最後にも登場していた。

後にシャープから、ファミリーコンピュータ本体とディスクシステムとを一体化させた「ツインファミコン」も発売された。なお、任天堂が違法コピーなどを危惧したため日本以外では発売されていないが、一部の国では正式に任天堂に承諾を受けたライセンス版のディスクシステムが発売されている。

ディスクカードの書き換えサービスは2003年(平成15年)9月、ディスクシステム本体の修理は2007年(平成19年)10月をもって終了している。

また、任天堂のゲーム機としては初めて起動音を採用したハードでもある。



ディスクライター
ディスクカードは「ディスクライター」という店頭に設置されていた書き換え装置を使うことで、内容を別のゲームに書き換えることができた。設置台数は全国で約3,200台。書き換えの料金は通常1タイトル500円、永谷園のCMが出る『帰ってきたマリオブラザーズ』は400円と、新規にディスクカードを購入するよりも安くゲームを楽しむことができたため、当時の主要ユーザーだった子供達からこのシステムは歓迎された。なお、新作の発売と同時に書き換えが開始されるわけではなく、2週間から1ヶ月半ほど期間を開けてから行われていた。


前述のように市場には公式な生ディスクは存在せず、書き換えするためにはまずゲームソフトを購入してディスクを入手することになっていた。『スーパーマリオブラザーズ2』など、片面のみ用いる一部の市販ディスクはB面が初めから空いており、B面に別のゲームを書き込めた。一部のディスクライターで供給されたソフトにはパッケージ販売された新作ゲームだけでなく、過去にロムカセットで販売された作品や、ディスクライターでのみ購入できた書き換え専用ソフトも存在する。またソフトによっては、パッケージ版と書き換え版で一部内容が異なる場合がある。

書き換えたゲームの説明書はパッケージ販売用と同じものが用意され、一部のゲームでは一冊100円で販売、その他は無料で配布という形式を取っていたが、これは次第にパッケージ販売用とは異なる2色印刷の簡易版が無料配布される形式へ変わっていった。書き換え版の供給されたすべての説明書にはディスクカードに貼り付けるタイトルシールが付属したが、のちにタイトルシールが不足したため「ネームラベル」という白色の自分で名前を書き込むタイプのシールが代わりとされたこともあった。さらに、書き込みの受付が終了する直前には書き換え希望が殺到し、説明書や白のネームラベルも品切れとなった店もある。

ディスクライターはディスクシステムの衰退とともに任天堂に回収される形で1993年(平成5年)2月中旬に店頭から撤去され始め、3月末には店頭から姿を消した。一方でユーザーへの救済措置のため、その後も同額にて任天堂本社、及び支店(札幌・東京・大阪・名古屋・岡山)で郵送または社内持込による対応が行われていたが、経年による機材老朽化で維持継続が困難となり2003年(平成15年)9月30日到着分を最後に対応が終了した。ディスクライターは任天堂に保管され、現存する最後の1台であるディスクライターが2014年(平成26年)公開の映画『ゲームセンターCX THE MOVIE 1986 マイティボンジャック』に登場した。



ディスクファクス
ディスクシステムは黄色のディスクが一般的だが、後期には青色のシャッター付きのディスクを必要とするソフトも発売された。これは店頭に設置された、ディスクに保存されたスコアやセーブデータなどを任天堂とやりとりする「ディスクファクス」と呼ばれる装置に対応したディスクで、黄色のディスクとは上位互換である。対応ソフトは『ゴルフJAPANコース』『ゴルフUSコース』『中山美穂のトキメキハイスクール』『ファミコングランプリ F1レース』『ファミコングランプリII 3Dホットラリー』の計5種。また、未対応ではあるが『リサの妖精伝説』も青ディスクが採用されていた。青ディスクには書き換えソフトの制限は無いが、逆に黄色ディスクを青ディスク用の前記6タイトルに書き替えることはできない。


『ゴルフJAPAN/US-』の上位入賞者には、メッキが施されオリジナルステージが収録されたゴールドディスクまたはシルバーディスク[要出典]が授与された。1988年(昭和63年)サービス終了。

このシステムは任天堂が普及に意欲を見せていた、ファミリーコンピュータを用いた家庭用通信システムの試金石とも位置づけられるものである。ディスクシステム本体にも通信用拡張ポートが備えられていた[7]。同じ拡張ポートはツインファミコンにも存在する。



ネットワーク性
当時のユーザーの間では、ディスク用の作品はロムカセットで販売されていたソフトとは異なる独特の雰囲気があったとよく言われる。これはディスクシステムのコンセプトが流通環境やプレイヤー間コミュニケーションを含めた「ネットワーク性」を重視していたことに起因すると考えられる。例えば『ゼルダの伝説』は、宮本茂によれば意図的に内容を複雑化することで攻略情報の交換が行われるような狙いを持っていたとされる。Wiiの似顔絵チャンネルなどもその原型はディスクシステムに遡る。またディスクカードが「大容量の書き込みメディア」である点も無視できない。


これらの狙いは結果的には時代を先取りしすぎたものとなったが、供給が安価であることもあってディスクシステムに前衛的な空気を吹き込み、ひいては64DDにみる64戦略やニンテンドーDS、Wiiのネットワーク指向など任天堂の長期戦略に影響を与えている。

ソフト供給
販売用ソフトの箱や説明書は一部のタイトルを除いて仕様が統一されていた。透明樹脂製の外箱の中にディスクカードを収めた透明プラスチック製のケース、それと同サイズの平綴じ説明書(表紙がそのまま箱の正面デザインを兼ねる)[9]、カード用ラベルシール、チラシ類が収納され、外箱の蓋にはセキュリティシールが張られていた。


任天堂はハードメーカーという立場から末期までソフト供給を行っていた。初期から中期にかけてはコナミやスクウェア・DOGブランドからも多くのソフトが供給された。これらのメーカーから発売されたソフトはディスクシステムに搭載された音源などの特徴を活かし、完成度も高かったことから名作と評されるものも多い。

一方、ファミコンの初期に参入した経緯からソフト数の制限が他社に比べて極端に甘かったナムコやハドソンはディスクシステムに注力せず、過去にROMカートリッジでリリースしたソフトをディスクシステムの書き換え用へ供給するにとどまった。

低迷
発売した当時「カセットの時代からディスクカードの時代へ」とCMで謳っていたように、ゲームの高性能化の面で期待されていたが、以下の様々な要因により独自の優位性を失い、早期に衰退していった。


読み込み時間
ランダムアクセスのできないディスクメディアであるためROMカートリッジと異なり読み書きに時間がかかった。



容量
ディスクシステム発売の1986年(昭和61年)にはすでにディスクカードを上回る容量を持つ1メガビット(128キロバイト)ROMカートリッジが出現。7月には2MBitの『がんばれゴエモン!からくり道中』も登場した。ディスクカード自体の容量拡大は不可能で、ディスクシステムの容量では早い段階で限界が見え始めていた[10][11][4]。


セーブ機能
1987年(昭和62年)にはリチウム電池によるバッテリーバックアップ機能搭載ROMカートリッジが登場し、従来型カセットでもデータのセーブ、ロードがディスクカード以上の速さで行えるようになった[4]。


拡張音源
1988年(昭和63年)のNAMCO106、1989年(平成元年)のVRC VIなど、拡張サウンド機能を備えたカートリッジが登場。特定メーカーだけのものであり音質・音色等も異なるが、同時発音数ではディスクシステムを上回るものもある。


扱いの難しさ
磁気メディア共通の弱点として磁気を発する物(磁石、テレビ、スピーカー等)を避けねばならない上に、埃や水分にもカートリッジ以上に弱いため、扱いには注意が必要であった。




こうしてディスクシステムはカートリッジに対する優位点を次々に失い、サードパーティはソフト開発に消極的になり撤退という道を辿り、次第に陰りが見え始めた。1988年(昭和63年)にはCD-ROMが家庭用ゲーム機PCエンジンに採用され、1990年(平成2年)にはファミコンの後継機であるスーパーファミコンも登場し、ディスクシステムの存在意義は更に無くなっていった。末期はディスクライターでの書き換え専用ソフトが中心となっていき、さらに末期は1タイトル600円(税込み)となるソフトも出現した。1992年(平成4年)発売の『じゃんけんディスク城』(『ファミマガディスク』シリーズVol.6、発売は徳間書店インターメディア)を最後にソフト供給は終了した。



・そのソフトはある日突然やってきた

1986年にはファミコンは成熟期を迎えます。ファミコンカートリッジだけでも86本に及ぶ中、大々的に登場したのがディスクシステムでした。しかし、自分が買うかというと今あるファミコンソフトを遊んでいる最中で、選択肢が増えた程度しか思っていませんでした。

しかし、友人の1人でなんでもソフトや新しいものを買っていたやつがいて、そいつがうちに遊びに来た際、ファミコンディスクシステムを抱えてやってきたのです。

しかもソフトはゼルダの伝説。どんなゲームなのか興味津々です。当時としては、ゲームにローディングが無いのが当たり前だったので、逆にローディングが発生することに面白みを感じました。

そして、ゲームがいざ始まると、今までのゲームとは全く違う概念で作られていることに驚きます。マップが上下左右に広がり、そして、爆弾、ランプ、隠されている洞窟やダンジョン、そして、当時としてはとても豊かだったゲーム性にすぐに心を奪われます。

実際に2時間程度の遊びだったんですが、2600円という安さ、500円で書き換えができるため、将来的には元が取れると踏んで購入を即断します。



そして、夕方には友人を連れてママチャリで近くのおもちゃ屋に直行。ディスクシステムを手に入れるに至ります。そして、まずこの起動画面に目を引きました。

マリオとルイージがライトがONにするかOFFにするかの漫才をやっているようなものが当時としては面白かったですね。

早速ゼルダを開始すると、レベル1~9までのダンジョンがあるとされていた中、どこがレベル1なのかわからないようにできていたんですよね。幸い、簡単に見つかる場所にあったので、すぐにわかりましたが、レベル2や3もすぐに見つかる場所にあるんですよね。

とにかく、今までのファミコンゲーでは考えられないその斬新な発想とアイディア、そしてゲーム性はコンソールゲーム機ではパイオニアでした。

最初の面から、ボス的が近づくと雄たけびが聞こえ、臨場感を増していきます。爆弾のつかい方が壁を破る方法だと見つけたり、マップの岩を壊せたりと偶然見つけることが多く、そこからしらみつぶしに探していく遊び方でしたね。



先週も書きましたが、この頃のファミコン少年少女はゲーム雑誌にあまり頼りませんでした。当然、ゼルダの伝説も大半の人が自力で解いたものです。

今時のゲーマーはあんな難しいゲームを解けた訳がない!と思うかもしれないですが、とにかく今の時代では苦行ともとれる作業もいとわず、そして、行き詰っても、1週間かかってでもなんとか打開しようとしていたのです。

そんなゼルダの伝説は、いまでこそ当たり前のトライフォースを集めるという概念、マップ、ダンジョンの概念、アイテムによる豊に富んだゲーム性など、当時のファミコン最高傑作ゲームなのはいうまでもありません。

そんな作品だったので、ディスクロンチで92万本、書き換え44万本というロンチソフトとして大成功を収めます。



・ディスクシステムを買うかどうかは賛否両論だった

その後、うちの家に遊びに来た友人もディスクを触れて、その出来に驚いていましたが、いざ買うか?というと曖昧な返答で、別に買わなくても遊べる(うちで)そして、ROMカートリッジゲームが普通に出続けている中、小学生が1万5000円とう大金を費やして新しく買うか?というと、賛否両論でした。

しかし、現実的に任天堂ゲームが遊べるのはディスクシステムだけになっていた中、当時の少年少女は今の任天堂のように、任天堂ソフトしか売れないという現実ではなく、いろんなメーカーからいろんなソフトが出て、そしていろいろと売れていた時代でした。それだけ今の時代のように任天堂に偏っていなかったんですね。

その後、買った人もいましたが、やはりクラスで持っている人は10人もいませんでした。普及台数がファミコンの3分の1以下にしか売れなかったので無理もありません。

そんな中、自分はやっと表ゼルダをクリアしました。その後裏ゼルダなるものが存在していて、それもレベル9まであることを知りびっくりします。ハートを20個集めるのもこの時代のファミコン少年なら当たり前でした。




・夢いっぱいディスクというキャッチコピー通りだった


当時、ファミコンカートリッジだけでは作りきれなかったソフトをディスクカードという形式で供給するに辺り、A面B面が存在し、片面専用ソフトも多数存在しており、それらがディスクライターで書き換えなどを500円で出来るというのは夢のような出来事でした。その価値を見出していた子供があまり当時は多くなかったのは意外に感じていました。

任天堂からもその後、バレーボール、プロレスなど片面専用ソフトが出て、それらが当たり前のようにミリオンに行くなど、ディスクシステムは、その普及台数と稼働台数がほぼイコールな今までにないほどの人気になっていました。

ゼルダの伝説で幕を開けたディスクシステムはその後、謎の村雨城、スーパーマリオブラザーズ2など話題作を立て続けにリリースします。特にマリオ2は話題になり、ハードを購入するきっかけになった子供たちも多くいました。



・新しいコースが鬼の難易度で出来る喜び!

前作からわずか1年しかたっていない中、少年少女時代の1年はとても長いものですが、今でこそスーパーマリオメーカーでコースエディットが当たり前に出来る時代ではなく、プロが作ったコースをゲーマーが遊ぶというのが当たり前の時代に、新しいステージが鬼の難易度で遊べるというのは夢のようでした。

しかもこのソフトは片面専用で、書き換えする子はしばらく待たなければならず、ソフトを買ってしまうケースが多かったと思います。

自分もこのゲームを遊んでみて、毒キノコにまずやられます(お約束)
その後、この奇想天外なステージ構成にびっくりしつつもやり応えのあるゲーム難易度にチャレンジする気持ちが高まったことを覚えています。

今の時代では、ステージが増えただけのゲームに2をつけるというのは任天堂ではあまり見かけなくなりましたが、それだけマリオの新しいコースが遊べるというのはかなりのセールスポイントだったのです。

クリアするまでやり込むのは結構時間がかかり、そして、難しいゲームがこの時代には流行していて、その中の1本に数えられる作品に位置づけられていました。

ファミコンでいう、チャンピオンシップロードランナーのように、攻略本を見ないとクリア不可能なゲームというわけでもなく、その辺は任天堂のゲームは基本クリアが可能な範囲での作品がほとんどすべてでした。



・ディスクシステムの絶頂期は1986年~88年まで

ディスクシステムが繁栄を極めて、MAXだったのは、1986年~87年でした。その後、カートリッジでセーブ機能が出て、そして、容量もがんばれゴエモンで2Mビットと、ディスクの512Kビットの4倍の容量を誇るゲームが1986年に出てしまいます。

それでもあのFM音源に似た拡張音源の追加は代えがたいものでしたが、それでも、コナミがVRC6という拡張音源をつけたりと、ファミコンカートリッジ単体でも音源を載せて発売するケースも出てきます。

何より、任天堂から1987年以降はアクションゲームが減っていき、ファミコン昔話新鬼ヶ島や、ファミコン探偵倶楽部など、バラエティに富んでいましたが、やはりアクションなどを遊びたいファミコン少年少女は多かったと思います。

そんな状況もあって、失速が予想以上に早く始まってしまいます。



・青ディスク登場、ゴルフJAPANコース全国ランキングがスタート

そんな中、インターネットも携帯電話もない時代、任天堂が当時画策していたこととして、ディスクライターを使った全国大会を開くという構想でした。

それは青色ディスクという特殊なディスクを使い、データをお店にもっていき、全国大会のランキング形式で上位に入る人にはゴールドカートリッジが贈られるというキャンペーンソフトとして、『ゴルフJAPAN』コースがスタートします。

自分もさっそく購入して遊んでみるものの、あまりのむずかしさに挫折します。それだけハイクオリティなコースが目白押しだったんですが、岩田氏の作ったちゃーしゅーめん方式のゴルフと、グリーン上の柴を読むのが難しい!

自分は大会には参加せず、個人的に遊んでいた思い出があります。 
青色ディスクはちょっと高く、3500円しました。しかし、そのプレミア感がまたよかったように感じていました。



その景品がこのマイクタイソンパンチアウト!のゴールドカートリッジでした。今でこそ、全国のハードオフなどで高値で売っていますが、それだけ貴重なものだったりします。別にこのソフトが本気でほしかったわけではなく、新しい遊びに参加したかっただけだったので、そういう意味では本気でほしい!と思っていた人はあまりいなかったと思います。

しかし、この1986年~1987年はゼルダのに始まり、謎の村雨城、スーパーマリオ2、そして、別の意味でのパイオニアになったメトロイド、その後パルテナの鏡、その間、対戦プレイが楽しいバレーボールやプロレス等も出て、短いながらに充実していたのは間違いなかったと思います。



しかし、1987年になると、ハドソンとNECが全く新しいゲーム機を出すと宣言、PCエンジンなるものを発表、ファミコン独占市場に新しいライバルが登場することになります。当時のファミコン少年少女は出るまではなんとも思っていなかったんですが、友達の家で遊ぶとその出来にびっくり!ということになります。

ファミコン1強時代だったですし、それ以外はほぼ無視していたゲーマーが他のゲーム機に振り向く最初のきっかけを作ったのは間違いないと思います。そして、セガマーク3では、ファンタシースターのCMに驚かされます。あの3Dダンジョンを誇らしげに見せて、ファミコンではできないクオリティにセガも頭の中で眼中になかったものが心の片隅に残るようになりました。




そして、任天堂が1988年についにスーパーファミコンの発表を宣言します。しかし、それは少年少女にしてはあまりにも長い2年半以上も待たされるという結末に、他のゲーム機に手を出すコアなファンも出始めます。

そして、スーパーファミコン発表のタイミングは1988年の10月に出たメガドライブと同じ時期で、明らかにライバル視していたのが間違いなかったと思います。

そんな自分もすっかり今でいうハードコアゲーマーになっていたので、当然このような状況に飛びつかないはずがありません。そこで・・・(続く)



・この頃のファミコン評価☆☆★★★★★★★★★8/10点!

子供の1年はとても長いものですが、そんな中でも様々な出来事が起こり、そして、時代も動いていましたね。ディスクシステムに始まり、ファミコンカートリッジの技術革新、そして、新ハード登場へと話題満載でした!

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2 Comments

ゲーム情報さん  

ファミコン以外のハードがなんかすごそうに見えていた子供の頃を思い出すなあ。
ただまあ、お値段がね、子供が買える値段じゃなかったよね。
やっぱりファミコンがコスパ最強で、スーパーファミコンが出るまで遊び続けたよ。

2020/04/21 (Tue) 21:46 | EDIT | REPLY |   

marukomu  

そうですね。他のハードをPCエンジンやメガドライブが2万円超えていましたよね。
その点がどう考えるかという部分で本命はやっぱり当時はスーファミ待ち
でしたね。

2020/04/21 (Tue) 22:17 | EDIT | REPLY |   

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